僕は水兵 君は船


本日は6日、時刻は只今午後14時をまわったところ。
一護は襖を開けては閉め、開けては閉めを繰り返していた。そして叫ぶ。
「ここはどこだ!何度襖を開けてもどこにもたどり着かねえ~~~!」

ゴーン。鈍い音が鳴り、はっと、一護は意識を取り戻した。薄暗い襖なんてない。眼前にあるのは教科書だった。

「・・・というこの人物の気持ちは・・・どう・・・」
そうだ。今は授業中。うたた寝をしている最中に足を机にぶつけたらしい。結構大きい音に聞こえたが、それは自分だけだったようだ。まったりとした空気は相変わらず。一護は胸をなでおろす。
「はい、私は・・・であって・・・」
適度な睡眠をとったことによって、一護の意識はほどなく覚醒し始める。視線を巡らせると、クラス中を包むぼんやりとした午後の空気のによって大半のクラスメイトが机に溶けるようにして眠っている。

そして、彼女もまた。
ちらりと一護は目線だけで右をうかがう。
(こいつ・・・)
一護の右隣――朽木ルキアの机の上には、『化学Ⅰ』と書かれた教科書が載っている。
(今は現国の授業だボケ!いつから寝てやがる)
そういえば化学と言えば。ルキアは、元素記号の小テストは解けたのだろうか。



時は5日午後11時まで遡る。ルキアは一護の部屋の押し入れで化学の教科書を開き、途方に暮れていた。明日は小テストなるものがあると聞いているが、範囲を見ても何が何だかさっぱりわからない。「元素記号の小テスト」と聞いていたのだが、指定されたページに書かれているものはどう見ても・・・・。

「おーい、風呂。入る?親父寝てるみたいだし」
「おお良い所へ来た一護!」
来たも何も一護の部屋だから彼がここへ来るのは当たり前なのだが、すっかり自分の部屋のように居座っているルキアからすれば一護はこの部屋についてきたオプションにすぎなかった。しかもうまくやれば宿題を盗み見ることもできる。やはり、あの強欲商人の家に行かなくてよかったと、ルキアはつくづく思うのである。

「貴様、私に元素記号とやらを教える気はないか?」
「はあ?あーはいはいなるほどな、明日のアレか。そんなのさっさと丸暗記して風呂を済ませろよ。今日は虚も出ないみてーだし早めに寝させろ」
「良いではないか!なんだか水兵がどうのこうので覚えればナントカとか言っておっただろう!頼む一護、この通りだ!」
ルキアは両の手を合わせて一護に懇願した。小テストの結果次第では、居残りでプリント学習をさせられるという噂だ。翡翠のエルミタージュに間に合わないなんてことがあってはならいない。あれは、ルキアの現世滞在の貴重な娯楽であった。面倒であった一護も、こうも懇願されるとひたすらにいい気味である。
「ったく、仕方ねえな。いいか、まずはだな・・・」

しかし、一護はこの選択をすぐに後悔することとなった。

まず水兵リーベの有名な語呂合わせを少し教えたところで「リーベとは誰だ?」という謎ツッコミがルキアから入った。え、リーベって人なのか?無垢な瞳に疑問を投げかけられた一護は硬直した。知らねーよいいから覚えろと投げやりになりとりあえず一夜漬けの丸暗記を仕向けたところ、「エイチという文字はあみだくじのようで面白いな!」と横棒の一本多いHを書いたルキアがアルファベットを知らないことが発覚した。元素記号どころではない。これでは、化学どころか中1レベルの英語基礎から始めなくてはいけない。

「そう、それだ!どう見てもここに書かれているのは英語ではないか。私の教科書がおかしいのかと思ってしまったぞ。何故化学の教科書なのに英語が載っておるのだ?可笑しいではないか!」
「・・・・知らん!あーーもう知らん!勝手にしろ!とにかく覚えろ!」
「貴様!それでも教える者の立場か!」

ああだこうだと口論しているうちに、虚が出現したのは何時だったか、もう日付は変わっていただろうか。退治から戻って小テスト対策、その後こっそりとルキアは風呂に入り、就寝時刻は二人そろって午前2時を過ぎていた。眠いはずである。
ルキアも午睡の誘惑に惑わされた生徒同様に瞼をとじている。こういう生理現象は死神といえど人間と変わらないらしい。それこそ眠っている様はまるで人形のようであるが、じいっと目を凝らすと、薄い胸がわずかに上下しているのがわかる。よかった、とりあえず魂魄は抜けていないらしい。固定剤が切れるとナントカカントカ~とルキアは言っていたが、聞き流していたようであまり覚えていない。
(アルファベットすらまともに覚えていないくせに、小難しい死神のしきたりとかに関しては本当細かいし、うるせーな)
自分たちは、自分にとっての重要なものが、相手にとっては案外どうでもいい存在なのかもしれない。一護は窓の外の雲を眺めてそう思った。

「はい、小川ありがとー、じゃあ問3、小田桐姉のほうー」
あ、まずい。ふいに我に返って一護は悟る。午後の空気でいろいろ考えるのが面倒になったのだろう越智美諭が、たぶん女子の前から当てている。
出席番号3番の小柄な女子(小川みちるであるが一護は名前を覚えていない)が当たり、今はその後ろが当たった。その後ろは今日は休みなのか来ていない。まだ新学期が始まって間もない時期、席順は名簿順である。空席の後ろ、次に当てられる位置に座っているのは女子6番。朽木ルキアであった。



「さっきは、すまなかった」
虚を退治して家に戻る道中で、背中のルキアから発せられた言葉に一護は耳を疑った。
「え?お前今何つった?すまなかったとかなんだとか?言ったのか?!」
「うるさい。とっとと貴様は歩みを進めろ」
いつになく殊勝なルキアの発言に思わず振り返ろうとするも、髪をぎゅっと握られて抵抗され、痛いことこの上ないので仕方なく一護は前を向いたまま夜の空座町を飛んだ。春の夜はまだ寒い。背中のルキアが、軽くて適度に暖かくてちょうどよい防寒具になる。

しばらくは、夜の静寂にびゅうびゅうと冷たい夜風の音しかしなかった。それでも、黒崎医院の自室の灯りを視界に入れるころにルキアが息を吸う音がかすかに聞こえたので、一護は心なしか移動の速度をおとす。
「現世の学問は必要ないかと思っていたが、私も自ら学ばなくてはいけなかったのかもしれぬと思ってだな。すまぬ、貴様の邪魔をする気はなかったのだ。」
ルキアの落ち着いた声に一護の頭は少しだけ冷静になった。何の拠り所もない場所で力を失い、周りに溶け込むこともできず孤立しがちなルキアを思うと、自分の態度を反省するほかなかった。こうなってしまえば、たとえルキアの態度が演技であろうがなんだろうが、あまり関係のないものである。そして実際この時のルキアの態度は演技ではなく珍しく本心であったために、口論が勃発することはなかった。

「いや、俺も悪かった。・・・もうちょいやってみるか?まずはアルファベットを覚えるところからだけどさ」
「よいのか?!」
「まあな」
身体に戻って肩を回すと、少しだけ目線を落としたルキアが口をとがらせていた。おそらく礼を言うべきだとわかっていても意地が邪魔をしているのだろう。無理強いすることはしない。一護は「まあ座れば」と自分の勉強机にルキアを促した。礼を言う機会を逃したルキアはおとなしくそれに従った。
「アルファベットの基礎って言っても、そうだな・・・・そうだ、そう名前だ!名前!お前とかお前の家族とかの名前をアルファベットで書いてとりあえず覚えろ!」
「私や、家族の名前・・・?」
「そう。いんだろ?きょうだいとか。その名前をひたすら英語で書いて・・・ええと。」
家族、きょうだい。
その言葉に少しだけ、ルキアが表情を曇らせたころに一護は気づく。ルキアは演技派だと自分で思っているらしいが、けっこう顔に出るタイプであると一護は思う。しかしそれは単に一護が他人の変化に敏い故であるが、そこには一護は気づかない。
「あの、家族が嫌ってか、あんまりとかならダチとか」
「いや、そういう、わけでは・・・・」
慎重になる。ルキアのこと、そして彼女の家族や友人のことは、まだよくわからない。だいたい死神に家族やきょうだいがいるのかすら、よくわからない。地雷を踏んだか?と、伏目がちな表情のルキアに一護の口は重くなる。
「・・・・だったら」
一護は、ノートにペンを走らせる。
「なんだ?なんと読むのだ?」
「これで、『くろさき いちご』な。ちなみにお前の名前は・・・ルキアってLか?Rか?」
さらさらと一護が書くアルファベットに、ルキアは目を輝かせた。かっこいいなあ、すごいなあ、とひたすらそればかりを繰り返しながら、ルキア幼子のような反応をする。それから飽きるまでずっと、ルキアはノートに「KUROSAKI ICHIGO」と「KUCHIKI RUKIA」を練習していた。
結局化学の小テスト勉強は「とりあえずこれを覚えれば・・・」とぶつぶつ言っただけで終わったものの、満足したらしいルキアは今朝はすっきりした表情をしていた。



「おい」
冷たい夜風とは違う。日差しで暖められたふんわりとした春風がカーテンを揺らす。一護はその風に声を乗せた。しかし隣のルキアは微動だにしない。もっと大きい声を出せばルキアに届くかもしれないが、ほかの生徒に訝しい顔をされたり、またあらぬ噂をたてられたりするかもしれない。これが精いっぱいである。
「おい朽木」
そんな一護の努力空しく、ルキアはすやすやと眠っていた。そう、一護の苦労も知らぬまま、実に腹立つほどの穏やかな表情で。そのルキアの表情と、春風に柔らかくそよぐくせ毛を見ているうちに、一護は。
一護は、何もかも馬鹿らしくなってきてしまった。

「じゃあその次の問いを、えーと、じゃあ朽木。・・・・あれ、おーい、朽木!」
「へ・・・あ、はい?」
いきなり眠りを中断されたルキアはわけもわからずきょろきょろと辺りを見渡す。
「この時のKの気持ちはどうだと思う?」
「・・・けい?」
そして、親を探す小動物のように頼りない瞳は、前を向き知らぬ存ぜぬを貫いていた一護を捉えた。その眼差しの威力に屈した一護はついに無視ができなくなり、仕方なく口を開いた。
(74ページ!)
さっきまで(知らんぞ俺は!)と決心していたのにも関わらず、こういうときに助け船を出さざるを得ない性分が一護のいいところでもあり欠点でもある。精一杯の小声の助言を受け、あたふたしてルキアは机上の教科書をめくり始めた。・・・化学の。
(だァッ!ちげぇよボケ!)
(な、なん、何が起こっておるのだ?化学は終わったのか?!)
「おーい朽木聞いてる?Kの気持ちはどうだったと思うか~」
「け、けー?・・あ、K!Kですね!Kならわかりますわよ~!」
昨晩さんざん書いたもんな!ほらな!と瞳をきらきらさせるルキア。お手本のようなどや顔に一護は頭を抱えたくなり、もう他人のふりをしようと頬杖をついて窓の外を見やる。ああ、さっき見た雲がもうあんなほうに・・・今日は風が強いんだなぁ~~。
「K、Kですよね、あっ、ありました!かりうむですね?」
「はあ?」
(バッカ!化学じゃねーよ!)

「くーちーきー、目を覚ましなさいな、Kは人間よ、Kが誰かちゃんとあんたわかってる?」
「あ、はい、そこはわかっておりますわ!」
そこで彼女はにっこりと目を細め、
「Kは黒崎くんのKですわ!」


「いいかルキア、俺らもっと規則正しい生活をしような。授業中に眠くなるのは仕方ねえ。俺も寝てた。お前が忙しいのはわかる。慣れてないのもわかる。だけどな、お前はもう少しな、なんていうか、」
「記憶置換をこんなことに使うわけにはいかん、生徒の大半が寝ていたことが幸いか・・・あああ、私は何を頓珍漢なことを・・・起きていた者のあの視線、屈辱極まりない」
「話聞けよコラァ!」

オレンジの雲は、凪いだ海に浮かぶ船の如く、ゆっくりと空を流れていく。
少しずつ、少しずつ、宵へ吸い込まれてゆく。


おわり

20190430

高校時代がはるか昔なので、作中で出てきている色々が間違っていないかとひやひやしています。
以前書いた「高尚な貴方の趣味」と同じような話の流れになってしまった気がします。こういうイチルキが好きです。
ルキアは頭が悪い設定なのでもっと原作でも推してほしかったです(笑)。下から数えたほうが断然早いルキアに一護が得意げに成りながら教えて、なんとか赤点回避して、ルキアは学ぶ喜びを知り謙虚ないい生徒になり、一護は教える喜びを知り教員を目指してくれないかな~^^(※妄想)
JETについてきた設定集でクラスメイトが判明したのでもう少し出せばよかったかな・・・。