高尚な貴方の趣味
誰もが眠くなる昼過ぎの授業、その開始5分前。微睡む生徒が多い中で、今ルキアは猛烈に焦っている。
(ない、ない…やはりない!)
次の5時間目は英語の授業だが、あろうことか、教科書を押入れに忘れてきてしまった…かもしれない。かもしれないと曖昧に濁しているのは、ルキアはまだ、手元にないことを信じたくないからだ。探せば見つかる、そんな根拠のない希望にすがりたい。
しかし、ルキアには、押入れに忘れてしまったという確信めいたものがある。
なんと昨日は、自分で予習を試みたのだ。とは言っても、試みたが単語が何もわからなくて2行目で断念したのだが…そしていつものようにこっそりと一護のノートを拝借して予習分を丸写しをしたのだが…。
ともかく、初めて教科書を鞄から出すということをしてみたせいで、教科書を鞄に仕舞うことを忘れた。余白にチャッピーを落書きしてからパタンと閉じた教科書を、押入れの壁と布団の間に挟んだ…そこまでしか、覚えていない。きっとそのままになっているはずである。
完璧に近い予習ノート(一護作)があれば、教科書がなくとも、なんとか…
「ならないだろうな…」
ルキアは途方に暮れる。
その様子を、一護は横目で伺う。
さっきまで一護は小舟であった。気持ちの良い午後の風が眠気の波をひきおこし、一護を揺らしていた。しかし、右の方からなんだか不穏な空気が漂ってきたせいで、精神はすっかり人間の器に帰ってきてしまった。
もしかしたらこの不穏な空気こそが、霊圧ってのが乱れている状態なのか?なんて思うくらいには脳みそが覚醒している。
ちらりと見えるルキアの机の上には、あのゲタ帽子から支給されたのか、オーソドックスな英語用のノートと、空座第一高校で一応指定されている紙の英和辞典と、100円ショップで買ったような飾りのないペンケースが置かれているだけだ。加えてこの慌てよう。教科書がないのは一目瞭然である。
顔の広い生徒であれば、教科書や辞書やなんやらは、忘れた場合は他のクラスの生徒に借りる。しかし転校(表面上)したてで、部活動にも参加していないルキアには、他のクラスに頼れるような友人はいない。
クラスの中には、なんとなくルキアのことを気にしはじめている井上織姫のような生徒はいる。しかしルキアはわりとひとりだ。別にルキア自身、ひとりであることを何とも思っていなかった。ついさっきまでは。今はこういう形で交友関係の狭さを突きつけられて、なんだか悔しい。
そんなわけで誰からも借りられないとなると、いよいよ隣の席の人から見せてもらうしか選択肢はない。
いやいや…隣の席の人って。
「…頼まれたら、見せてやんねーこともねえぞ」
主語のない文句に、ルキアは手をぴたりと止める。
「…あ、あら〜、何のことですの、黒崎くん?」
ルキア本人はにこやかに猫をかぶっているつもりだが、口元はひきつり、冷や汗が出ている。こういう反応をされると面白くはないので、一護は無視して目をそらす。一方で目をそらされたルキアは、カチンと来てしまう。
「ふっ、私は現世での勉学など、やってもどうにもならんのだ、ましてやこんな異国の言葉など、覚えたところで何の役にも立たぬからな…別にどうなろうと構わん」
ルキアのいる世界なんて、「ソウル」「ソサエティ」なんていうバリバリの英語な訳だが、ルキア本人は気づいていない。一護は、ルキアの言い訳を右から左に流して、「尸魂界にも外人とかいるのか?」なんて考えて、もう半分ルキアのことはどうでもよくなった。
始業まで残り1分になって、早めに教師が入室してきた。ルキアは口を結び、チラチラと一護に視線を送る。
「なんだよさっきから?」
「…察しろ!」
一護は思う。さっきまでの眠りのはざま、舟は舟でも俺は助け舟になっていたのかもしれないと。
しかしいつも顎で使ってくるルキアを、ただで舟に乗せてやるわけにはいかない。
「ったく…てめーの口はなんのためにあるんだよ?見せてください、だろ?」
「うぐ…」
ルキアの高圧的な態度が一転して、恥辱に顔を赤くする。なかなか見せない表情に、一護の自尊心は満たされてゆく。
ざまーみろ。いっつも俺を馬鹿にしやがって。
言い澱むルキアを、一護は頬杖をついて眺める。掌で少し隠せてはいるが、一護の口元は優越感で少しだけ緩む。
「…み、み……」
「み?」
「…み…みせ…」
「みせ?」
「………見せろ」
ゴン、と響いた音は、拍子抜けした一護の額が机にぶつかった音である。
「いつも被ってる猫は何処に消えたんだよ!!」
「貴様の前で態度を変える必要もなかろう!」
小声で言い合っている間に、始業のチャイムが鳴ってしまい、皆、気持ちや姿勢を切り替える。バタバタと席に着く者、空気の変化で居眠りから起きる者、読んでいた本を閉じる者、巻きでお喋りをする者、そして一護は口論を諦めようと努めた。
「…はーあ、しょうがねえな。見せてやるよ。ほら、机こっちに付けろ。」
「な、何故だ!?」
「い、いや…?その距離からで見えるんならいいけど…」
「そうではない、貴様がこちらに寄ればよかろう!」
「なんでそうなるんだよ?!」
「れでぃ・ふぁーすとだぞ!」
「…いらん知識ばっかり身に付けやがって…」
「なんだその言い草は?貴様、マリアンヌを侮辱するつもりか!」
よーしはじめるぞ、眠い時間なのはわかるけど頑張って起きてくれー。教科書は30ページだぞー。
「……この借りはでけーぞ」
「くそっ……卑怯者め…」
睨み合いながら平等に距離を詰めて、2人は机を合わせる。木と木のぶつかる軽い音がした。
(なんだ、やっぱり仲良いんじゃん?)
その様子を、後ろから水色が楽しげに観察しているなんて、一護もルキアも全く知らない。
結局2人とも、互いのことが気になりだすと周りが見えなくなるのだ。
その事実はまだ双方の心の奥深く、霞に隠れ、しかし確かに存在している、ある春の午後。